移民の概要:
ハワイが独立王国であった明治18年 (1885年) 2月、本格的な移民として第1陣222名が渡航した。これは前年度の両国間で非公式に結ばれた渡航契約「日本人移民ハワイ渡航約定書」 に基づいていたが、 現地の雇用主との間で多くの労働紛争が発生したため、 明治 19年(1886年)には正式な「日布渡航条約」が締結され、 第3回の移民から適用された。
両国間で結ばれたこの条約に基づく移民は「官約移民」と称され、 明治28年 (1894年) まで続き26回を数え、この間全国で29,084人が渡航した.。このうち広島県人は11,122人で全体の38.2%を占め、山口県人の10,424人(35.8%) をあわせると2県だけで全国の74%に達するほどあった。広島県では特に佐旧郡、安芸郡、沼田郡 (安佐南区)、高宮郡が多くを送り出しており、それぞれ30.8%、25.2 %、11.4%、9.9%を占め、この4郡で77.6 %に達している。広島湾岸と太田川平野がハワイ移民輩出のメッカと言われるゆえんである。
4群の村別の累計数は西原村では76人と他村に比べればやや少ないが、人口比率(移民率)ではそれほどの差はないものと思われる。
ハワイへの移民は出稼ぎ的性格が強く、3年契約で甘蔗震園などで働き、契約終了後の5~ 10年間に大多数の人が帰国している。
故郷に残した家族に送金しながら辛抱して働き、大金を持って帰国するのが最大の目的で、明治24年(1891年)の広島県の調査では、ハワイ在留人員4,592人(同年の渡航者1,936人を除く)のうち74 9%にあたる3,438人が日本に送金していた。100円以内の送金が最も多く80%を示すが、最高は896円であった。
また、同年の広島県への帰郷者579人の送金・持ち帰ったお金(収得金)は300円以上が最も多かった。こうした収得金の総額は270,732円にも達し、同年の県予算の53.4%に及び、年々増加して明治30年代の後半には県の歳入総額を超える額に達していた。大正9年(1920年)は西原村のこうした収得金は特別多額で、安佐郡の町村平均額74,692円の4倍近い300,300円に達しており、この額は原村の村民税の13倍に相当していた。帰郷後における収得金の使用状況は、貯蓄が26.9%、不動産または農機具購入が35.0%、負債償却・雑費が39.2%となっており、負債償却にしようされた割合が高い。
参考:明治24年(1891年)頃の賃金(広島市)
農業雇用 月給1円50銭
機械工 月給5円
大工・木挽き 日給22銭
トピックス:
成功したあるいは帰郷の証として、住宅の一部を洋風にした住宅が多くあり、壁には油絵がかかっていたり、欧米風の家財道具があったりした. コーヒーを飲む習慣も早くから持ち込まれ、ターパン姿のアラビア人風の老人を商標とした赤色のヒルズコーヒー缶がよく再利用されていた。クリスマス前にはプレゼントが送られてきて、チョコレートなどが子供たちを喜ばせた。
ハイヒールを履いて帰郷し、村民を驚かせたのは昭和12年(1937年)のことだという。多くの家庭はハワイに親戚があり、かっては行き来する人も多く、広島空港からホノルルへの直行便が数年前まであったほどである。カープが初優勝したときは、ハワイから中国新聞を送ってほしいといつ要請が集中して新聞社は大慌てだったという。
ハワイの標準日本語は広島井だとさえ言われていたし、広島・山口両県の移民は辛抱強くて、資任感があり、よく働くとハワイでは評判であった、など逸話には事欠かないが、世代の交替につれこうした関係は希薄になってきた。広島県はハワイ州と(平成9年(1997年)、広島市はホノルル市(昭和34年(1959年))と友好・提携関係を結んでいる。
その後の経過:
明治26年(1893年)、合衆国系のハワイ共和国が誕生するに至り翌年には官約移民は終焉となる。代わって民間業者による移民募集・渡航斡旋が盛んにおこなわれるようになり、広島県の移民の最盛期を迎えることとなる。また、合衆国本土の渡航も増加し始め明治32年(1899年)には1,127人を数えた。
明治41年(1908年)には「日米紳士協約」が結ばれ出稼ぎ目的から定住化と変化し、それに伴って父母・兄弟・子どもなど家族や伴侶の呼び寄せが始まり、大正9年(1920年)までは年間3千人以上の人が渡航した。
大正13年(1924年)に合衆国で「移民法」が成立し、同国の市民権を有する者にのみ渡航が許されるようになり、代わってプラジルなどの南米への移住が急増する。ちなみに昭和11年(1936年)における広島県民の多いのは1位ハワイ26,403人、2位合衆国22,604人、3位プラジル11,965人、4位フィリビン3,959人、5位カナダ2,431人で、全国に占める割合は2位の熊本県を大きく離していた。
昭和10年(1935年)にプラジル政府が移民を制限したので、以降は満州への農業移民が急増する。終戦までに県民6,345人が開拓民として大陸に渡った。昭和13年(1938年)から始まった満蒙開拓青少年義勇軍として4,827人が満州に渡っており、これは長野県に次いで2番目に多い。なお、この頃まで移民累計数で全国1位を保持していたが、その後は沖縄・熊本両県の後麈を拝するようになり、現在では全国順位は第3位である。
出典:
広島県:「広島県史近代1 , 2」、「広島県移住史」
小玉正明:「移民県としての広島」
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