西原のとんど(左義長)
出典: 西原今昔物語
昔は毬打ちの儀式であったといわれ、1月15日清凉殿の庭で青竹を立ててこれを焼き、トンドとはやしたといわれる。
この地方では各部落とも正月14日にかつて行われていた。当日は青竹、藁、麦稈(麦わら)などを田圃や畑の空き地に集めてこれを立てて焼く。部落の子どもたちは午後から総出で竹や麦わらや藁などを貰い集める。夕方になると大人が出てきて「とんど」作りに加わる。中心にまず心棒を深く立てて倒れないようにし、この心棒に氏神様の正月のしめ飾りや各家庭の正月のしめ飾りを結びつけ、その周囲に竹を立ててその間に麦わらや藁を入れる。一番外側には、大きな綱か竹を割って輪を作り締め付ける。上の方は2〜3m径、下の方は4〜5 m径になる。
子どもたちは「書き初め」を持って集まり、それを長い竹の先につけて待つ。小暗くなる頃「火をつけるよ」と大人の声にあわせて、四方から火をつける。麦わらや、藁や、竹の葉がぱちぱち音をたてながら、大きな炎をあげる。炎の勢いが最も盛んな時を見はからって、子供達は「書き初め」をつけた竹を燃えさかる炎の上に突き出すと、上昇気流に乗って「書き初め」は大空に舞い上がる。しかしなかなか舞い上がらないが、中にはうまく舞い上がるのがあって、その人は習字が上達するといって大喜びをする。
火をつけて5分も経過すると竹の中の気体が膨張して、“パアン、パアン”と爆発音をたてはじめ、やがて笹の葉や藁が燃え尽き竹を組んだやぐらが燃え落ちると、それぞれ自分が持ってきた鏡餅を竹にはさんで、この火で焼いて食べるのである。「とんど」のまわりに何十本も並ぶ餅竹は、燃え出すやら、餅がプーと膨らんでくるやら皆大はしゃぎであった。餅が焼けると手でちぎって食べたが、竹の香りが移って一種特別な味がして懐かしい想い出である。
なお、最近のとんどは、祝日か日曜日に行われている。当日の午前9時頃から竹を切り集め、昼頃には3本の大竹を束ねて3脚とし竹を縦に寄せ集める。午後2時半頃点火して、夕刻残り火を消して終了している。
冬木神社のとんど
太田川河川敷のとんど
令和5年(2023年)の冬木神社のとんど
出典:はらだより掲示板(令和5年2月号)
1月9日(月)、冬木上町内会の「とんど」が冬木神社境内でありました。地元町内会の川野照彦氏によると「コロナの動向で中止にせざるを得ない場合もあるので、慎重にならざるを得ず、事前の広報はしなかった。結局4日前に規模を縮小して実施することになり、翌日に竹を取りに行った。 2年間は中止していたので、町内会の行事として再開したいという気持ちが強かった」という話でした。関係者は10時に集合し、11時30分には準備が完了。14時に点火することになりました。
点火されると炎は高く上がりましたが、すぐに竹は倒れました。が、いわゆる「あんこ」が多かったせいで、餅を焼き始めるのには少し時間を要しました。佳境を迎えた5時過ぎには数十個の餅が並んで、竹・木材・餅のミックスした「とんどの匂い」を味わうことができました。チョロチョロもえる残り火でとる暖には格別の安らぎを覚えます。これでコロナもインフルもノックアウト、となればいいのですが。
令和5年の冬木神社のとんど
とんどの思い出:
西原八丁目 中本和男さんの思い出:
昔は西原でも何か所かの地域でとんどが行われていました。私の住む天満地域では、古川を挟んで西原側と東原側で、それぞれにとんどの櫓を組み、その高さを競いあったりしたものでした。
その頃は、古川土手沿いには竹林があったので、毎年4月ごろになると、丈夫そうな竹の子5本を選んで、1月まで大事に育て、とんどの櫓に使っていました。当時は「牡蠣いかだ」に使用するため、この辺りの竹を伐採していました。ですから竹の子が出てきたら、良い竹の子をすぐに確保しないといけなかったのです。
その後、西原も宅地化が進み、とんどの火の粉が近隣のビニールハウスのビニールを燃やしたりするなど、とんどを続けていくことが次第に難しくなりました。現在は、冬木神社と太田川河川敷の2か所でとんどが行われています。
冬木神社の境内で開催するとんどは、午後2時から夕方まで開催し、その間にお酒を飲んだり、お餅を焼いて食べたりします。このようにして若い方々と年配の人達が交流する場所にもなっています。夕方になったら、境内に穴を掘って、その中に残り火等を埋めておきます。毎年少しずつ場所を変えて、埋め込んでいます。
また、最近はとんどに使う竹が西原では少なくなりましたので、沼田のほうにお願いして竹をいただいています。
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