縁起:
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来(下の写真。作者不詳であるが、元禄年間(17世紀末から18世紀初め)の作と伝えられる。)
寺号 原洞山明福寺
明福寺は昔、真言宗であって、行基菩薩の弟子空円が神亀元年(724)安芸国賀茂郡志芳の郷の生城山へ一宇を建立し真言を遵奉することに始まる。それより十数代を経て西空に至って真宗に帰した。応永5年(1398)西空が安芸国沼田郡西原村今津の郷に来て一宇を建立し、これを原洞山明福寺と自称した。第2世遊了、第3世了清の時すなわち慶長5年(1600)11月今津の郷より字新町に移転し、5間4面の本堂を建立したのである。この年に本山より原洞山明福寺と寺号を許可された。
明治33年(1900)には当時の村長横竹元太郎の東奔西走による努力のかいあって、桁行7間、梁行九間半の本堂が再建されたが、昭和35年(1960) 8月22日、不慮の災禍のため焼失した。
その後、多くの篤志家あるいは門徒一統の浄財約9 0 0万円によって、昭和3 7年(1962年)4月15日、鉄筋コンクリート造りの近代的な本堂が再建された。
(西原今昔物語)
平成16年(2004年)3月、現在の本堂が新築完成。
平成21年(2009年)3月、山門屋根葺替改修。
下の写真は令和元年(2019年)撮影。左が山門、右が本堂。
花まつり:
釈尊誕生の立像を灌浴する儀式を指すところから灌仏会ともいう。本願寺では明治期までは降誕会といった。推古天皇14年(606)4月8日、元興寺で行ったのが最初(『日本書紀』)。宮中行事の一つとして行われていたが、その後時代が移り、各地の寺院でも広く行われるようになった。
明福寺では、戦時中を除いて昭和3 0年頃まで行われたが、しばらく中止して、平成元年4月9日、明福会(仏教壮年会)の協力で復活し現在に至っている。前日は、明福会とみのりの会(仏教若婦人会)が協力して餅をつく。花まつり当日は、花まつり宿からの象さんパレードに幼稚園児が加わり、寺に到着後は、本堂での法要、甘茶かけ、餅まきが行われ毎年多くの人で賑わう。
(西原今昔物語)
下の写真は、令和3年(2021年)4月撮影。コロナウィルス感染防止のため、マスクをつけて参加。
盆踊り:
戦前、戦後しばらく西原の老若男女のいこいの場であった。その後しばらく休止されて
いたが、昭和63年復活、社会福祉協議会や子ども会をはじめ地域の十団体の共催で現在も行われている。古くから伝わる西原扇子踊りや炭坑節は定番だが、幼稚園児の子ども盆踊りのあり、夜店もあり、子どもからお年寄りまで楽しめる全員参加型の行事となっている。
(西原今昔物語)
下の写真は、令和元年(2019年)撮影。会場は法輪幼稚園。
お稚児さん:
出典:はらだより・掲示板(令和4年(2022年)12月号)
去る11月 5日(土)と6日(日)と2日にわたって明福寺住職の継職奉告法要が執り行われました。応永3年(1398年)、1世にあたる西空は賀茂郡志芳から西原村今津の地に移り、原洞山明福寺と称しました。現住職は17代目にあたります。
初日には、法要、式典、法話、コーラスなどがあり50カ寺あまりの法中(お寺さん)が進行にあたられ、多くの門信徒徒の参拝がありました。境内は、お寺さんの艶やかな法衣姿と雅楽の演奏、それらに読経が加わって仏教行事一色の1日になりました。
二日目午前中には稚児行列があり、稚児宿(T氏宅)から明福寺まで衣装と化粧で飾り付けた92名の幼児が、法中・雅楽会に続いて行進しました。
両親や祖父母と連れ添いながら雅楽にあわせてヨチヨチと歩く姿はほほえましいものでした。なお、稚児は宿と近所の私道(N氏宅前)の2か所に集合し、途中で合流しましたので長蛇の列になり、先頭も末尾も見えないくらいでした。関係者と見物人を含めて400人余り、行列も300m程になったのではないかと思われます。お寺に到着した稚児は、順次本堂でお参りし、新設なったスロープを使って幼稚園のグランドに降りてきましたので、混乱もなくスムースに進行しました。当日は晴天で陽射しも強く、赤・緑・紫・白の色彩が鮮明で「インスタ映え」のする写真が撮れたのではないかと思います。
ちなみに、戦後では15世の継職 (不詳)、火災後の本堂再建(昭和37(1962)年、副住職の就任(昭和58(1983)年、16世の継職(昭和63(1988)年)、現本堂の落成(平成16(2004)年)に続き6回目の稚児行列となります。
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