昭和20年(1945年)8月6日、広島市に原子爆弾が投下され、当時「上流川町」にあったNHK広島中央放送局の局舎等が壊滅し、多数の職員らが犠牲となりました。しかし、原村(現在の西原)のNHK原放送所は奇跡的に生き残りました。このため、原放送所では、職員による緊急放送を行うとともに、生き残った放送局の職員も加わって、翌7日から本放送を再開しました。(参考:ウキペディア)
広島壊滅の第一報を伝えたNHK原放送所:
昭和20年(1945年)8月6日、午前10時頃、中学1年生だった私たち5人は、八本松駅で乗った広島行きの列車が瀬野駅で運行停止となり、ムリヤリ降ろされてしまった。止む無く歩いて行こうと瀬野駅前を通る西国街道に出て、遥かに燃え盛る広島へと歩き始めた。
そのとき近くの民家から、男の叫ぶ大声が聞こえた。
「こちら広島、こちら広島、広島全滅、救援を乞う。大阪さん、大阪さん、聴こえたら連絡してください。岡山さん、聞こえたら連絡してください」。
取り乱したような必死の叫び声だった。ラジオだ。それにこの声は専門のアナウンサーじゃない、普通の中年男性の叫び声だ。当時は民放なんて存在していない。NHKのラジオだ。
「広島全滅!」、聴いた私たちは、猛炎立ち昇る広島へと走り出した。そうやって私は級友と共に、地獄と化した広島市内へ入ったのだった。
以来、私たちがずっと疑問に抱いていたことがあった。それは、「あの時『全滅』と叫んだ声の主は誰だったのだろう?」ということだ。
改めて白井久雄さんの「幻の声」という記録を読み直してみたところ、NHK原放送所の技術陣が独断で、「広島壊滅と救援要請の緊急放送」を行っていたことがわかった。
その放送は、被爆直後から正午頃まで、NHKの職員みんなが交代で続けていたという。私たちが午前10時頃聞いた「救援を乞う」という放送は、この放送だった。広島壊滅の事実は、NHK原放送所から第一報が送られたのだ。
多くの人がこの放送を聞いた。放送を聞いた人の中には「悲しげな女性の声だった」と言う人もいれば、「若い男性だった」、「中年の男性が息せき切った必死の叫びで放送していた」と言う人もいた。NHKの男女職員が交代で放送を続けていたという。女性職員のうち、声のきれいなタイピストや技術員に「放送せよ」と懇請したといったエピソードが残っている。
通常の放送を緊急の救援要請放送に切り替える、つまり電波を乗っ取ることは、当時の厳重な放送管制下では重罪に該当したはずである。しかもアナウンサーなど正規の放送員でない者がマイクで放送するということは、完全なルール違反である。当時の原放送所の所長以下の相当な覚悟と決断があったことが、感じ取られる。
出典等:
この稿は、ヒロシマピースボランティアの原田健一さんが編集されている「マンデーメモ」の1158号と1159号に掲載された、新井俊一郎さん(広島平和文化センター・被爆体験証言者)の投稿等から引用して作成しました。新井さんのプロフィール等は、こちらをご覧ください。(ここをクリック)
参考:
白井久雄著「幻の声」岩波新書、1992年刊、P60「第三章、男の声も流れた」
同盟通信中村記者の手記(昭和20年(1945年)8月15日):
『ご詔勅も(NHK原放送所の)この電話線を通じて同盟通信本社から声で流され、これを通信主任の瀬谷崎孝君と安原善次君が速記で受け、翻訳し、警察官護衛のもとに放送所でガリ版を切り、そして印刷をし、警察官の手で広島市の要所要所に、このご詔勅をはり出したのである。
瓦礫の街と化した広島市内にはラジオも新聞社も、印刷所もなく、ガリ版印刷以外にご詔勅を国民に伝える方法がほかに無かったのである。
・・・原村の放送所で、作業をする私たちを警察官が護衛してくれたのは、終戦に反対する憲兵の不穏な動きがあったからである。
窓を締めきり、電灯の光を覆う防空カーテンをおろした蒸しぶろのような部屋で、全員が敗戦のむなしさにむせび泣きながら電話を受け、泣きながらガリ版を切ったのである』(NHK出版編、「ヒロシマはどう記録されたか」)。
出典:
ヒロシマピースボランティアの原田健一さんが編集されている「マンデーメモ」1040号
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