西原の観音さん(西原楊柳観音)

 

冬木神社の境内にある観音さんは、「安産」の観音さまです。

毎年9月最初の土・日にお祭りがあります。

西原の観音さんの写真については、こちらをご覧ください。(ここをクリック)

 


観音さんの紹介:

鎮守の森を目安に冬木神社と総称していますが、境内の西半分は「観音さん」を祀る観音堂の領域となっています。東半分の神社側の入り口には鳥居、山道には楠・杉の木といった巨大な樹木が植えてありますが、西半分には鐘楼しかないのも寺院に属するためです。ちょうど銀杳の木あたりが境界の目安になります。戦前には、三滝観音、戸坂の松笠観音と並び称され、太田川下流域を代表するような賑わいを見せていました。

 

西原の観音さんは「安産」の祈願所として有名で、郡内からの訪問者が絶えませんでした。安産祈願は、本尊に腹帯を巻いて1週間後に受け取りに来るというもので、昭和35年頃までに生まれた西原人のほとんどがこの祈願の世話になっています。冬と夏の祭日がありましたが、冬の祭り( 1月18日)は盛大で境内は参拝者であふれ、屋台も多く出ていました。親戚縁者を招待する家庭も多く、子どもは正月でも着せてもらえなかったオーバー姿でお参りしていたそうです。健康に育った子供の姿を観音様に見てもらうためだったのでしよう。また、各集落からの沿道には観音さんの幟が立てられ、子どもながらにハイテンションになったと言います。いつのころからか餅まきが始まり、写真に見るような賑わいとなっていました。神社の拝殿から播いていましたが、後には足場を組んで広範囲に届くようにしたそうです。 

 

御詠歌のメッカでもあり、昭和40年ころまで多くのグループが競い合って活動していましたが、今では思い出になってしまいました。

 

現在は、9月最初の土・日が年1回の祭日になっています。病院でのお産が一般的になった今日では、過去の賑わいとは想像もつかないくらい静かなお祭りになっています。この1年を健康に過ごせたお礼にお参りされています。

 

出典:原学区社会福祉協議会「掲示板」(平成30年(2018年)10月号)

 

昭和35年(1960年)1月18日のお祭り: 1枚目の写真はもちまきの風景。


皆様の観音さんの思い出:

Wさん:

冬木神社は西原育ちの明治38年生まれの祖母が子どもの頃よく遊んでいたという話を聞いておりました。私の主人の母も私も腹帯の祈祷をしていただき安産で今も健康に過ごしております。

 

今日は、娘の安産祈願にお参りさせていただきます。600年の歴史を感じさせていただくご縁に感謝です。

 


観音さんの歴史(出典:西原今昔物語を作る会:「西原今昔物語」(平成15年(2003年))

 

観音堂について:

西原楊柳観音のお堂は、冬木神社の境内にある。

冬木神社の創建は正保元年(1644年)である。

楊柳観音が武田山の南麓青原から西原のこの場所に移されたのは室町時代前期(1400年)であるので、冬木神社は、後からこの観音堂の境内に建てられたことになる。

お堂の棟札によれば、現在の観音堂は安政4年(1857年)に建てられた古い建物にかえて、大正4年(1915年)3月2日に新築されたものである。

 

楊柳観音の由来:

木村家(戸坂の狐瓜木(くるめぎ)神社の神主)の古文書(享保2年(1717年))によれば、

 

弘安6年(1283年)、武田信形(信宗のことか?)が安芸国4郡(安南、安北、佐西、佐東)を賜わり、国司として赴任する途中、近江国(現在の滋賀県)絹川を馬で渡っていると、その馬の尻尾に喰いつくものがあるので、不審に思いながらよく見ると、それは甲斐の国(現在尾山梨県)に残して置いた観音像であった。信形(信宗?)は大変喜んで任地の金山城に着くと、その観音を重臣の粟屋土佐守に命じて下安村、粟原(現在の青原)に安置して「粟原山尾喰寺」と称した。

 

その後、この観音は暦応3年(1340年)、武田伊豆守が厳島社司、廿日市桜尾城主 平員家(たいらの かずいえ)に攻められた時、兵火を逃れて家臣の金蔵寺信重の屋敷に移されて難をのがれた。更にその後(暦応3年から60年後)、武田信濃守の代に西原の里に堂閣を移転した。」と記している。

なお、「尾喰寺は、はじめ時宗であったが永正2年(1505)に真宗に改宗して清立坊と称した。」とも記述している。

 

大悲殿の額:

楊柳観音には、「大悲殿」と墨で書かれた額(下の写真)が保存されているが、これの由来について木村家古文書を要約すると次のとおりである。

 

ある日、空仁上人が木村家を訪れた際に、足利左衛門慰鎮守府将軍の直筆と称する「大悲殿」と書かれた扁額と仏画の掛物を木村家が戴いた。その後この扁額と仏画は西原村の尾喰寺楊柳観音へ奉納した。」とある。

 

なお、口伝によればこの扁額は、足利尊氏の直筆であると言われているが、真偽は明らかでない。一説によれば、南北朝時代の武田氏は暦応という北朝方の年号を用いる等、北朝方の足利尊氏に味方していること、及び銀山城を築いた信宗の子の信武は足利尊氏の姪を妻に迎えていると言われていること等から、足利将軍の直筆と言われる扁額があっても不自然ではない。

 

大悲額の写真(写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。)

 

楊柳観音の棟札:

西原の観音堂が創建されたのは室町時代であるが、創建以来安政年間までの間、堂閣は何度も再建、修理されたと思われるがその状況は不祥である。しかし、安政4年銘の棟札と大正4年銘の棟札が保存されているので、これについて見てみよう。

 

①安政4年(1857年)10月2 5日の棟札には、「楊柳観世音尾喰寺本堂再建」とあり、建物を守護する神々のほか、この本堂の再建に関係した人々の名前が記入されている。それは郡奉行、代官、割庄屋、掛持庄屋、庄屋、組頭、長百姓、木工司、大工、木挽、左官、瓦師、石工等の名前である。

 

観音堂再建棟札:安政4年(1857年)(写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。)

 

②大正4年(1915年)3月4日の棟札には「本堂再建(六角堂新築)」とあり、大正2年(1913年)10月13日に村内の信徒総会を開き、本堂の再建を議決し、大正3年(1914年)3月30日に起工式を行い、大正4年(1915年)3月4日に竣工式を行った。

工費総金額は3,246円35銭2厘とあり、更に信徒総代、明福寺住職、新旧村長、及び世話係119名の氏名が記載されている。

 

観音堂再建棟札:大正4年(1915年)(写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。)

 

なお、昔の観音堂は安政4年(1857年)から大正4年(1915年)まで、わずか58年で使命を終り、今の本堂(六角堂)に建て替えられている。安政4年(1857年)に建築された元の本堂は、現在の本堂の前に移築されて「茶堂」として昭和44年(1969年)まで使用されていたが取り壊されて現在はない。