青木百貨店

 

青木百貨店は西原八丁目にあった、戦前から昭和40年代まで続いた雑貨店です。

その後、店舗は「ママチェーン」として2010年代まで引き継がれました。

このページは、旧青木百貨店の社長、青木澄夫さん(西原八丁目)にご協力いただいて作成しました。

 

なお、青木澄夫さんの原爆の記憶については、こちらをご覧ください。(ここをクリック)

 


青木百貨店の創業:

青木百貨店は昭和10年頃(1930年代)に青木商店として開店しました。当時は現在の原郵便局の道路を挟んで反対側にありました。化粧品や雑貨などを主に販売していました。店の周りはみなさん農家でしたので、食品は特には販売していませんでした。

その後、「いろいろな物を販売しているのだから」という理由で青木百貨店と名称を変更しました。

 

引用:Googleマップ


原爆投下と青木百貨店の営業再開:

昭和20年(1945年)8月6日に投下された原爆により、青木百貨店のガラス窓が全部吹き飛びました。その後3日位で後片付けを終えて営業を始めました。主に雑貨品を中心に販売していたので、3日位で営業を始めることができたのだと思います。

原爆投下後しばらくは仕入ができなくなったので、店にある物が売り切れたらそれで終わりといった状態でした。

広島市内を走る山陽本線は市内中心部からやや外れた場所を走っているので、鉄道自体の被害は少なく、すぐに復旧したと思います。このため、山口方面などからの物資が搬入されたと記憶しています。

 


西原の生活と地域の発展:

昭和30年代の後半(1960年代後半)に西原もようやく発展が始まりました。しかし、東京オリンピック開催に伴う好景気の波は西原には届かなかったように思います。

 

昭和20年代(1940年代)から昭和30年代(1960年代)までは、西原の家々では主に炭を使用していました。昭和40年代(1960年代後半)に入ると、石油コンロが普及するようになりました。このため青木百貨店でも石油を扱うようになりました。それからしばらくするとプロパンガスが普及し始め、青木百貨店でもプロパンガスも扱うようになりました。

 

昭和30年代(1960年代)までは、西原の「下」地区。中野庭樹園(現在の「洋服のアオキ祇園新道店」の近く)以外は、ほとんど田畑でした。原小学校南側に市営プールがありましたがその辺りから北側の地区には家がそこそこ建っていました。

 

昭和40年代(1960年代後半)に入って、西原の「下」地区にも少しずつ借家が建設されました。しかし「上」地区の方は比較的保守的でしたので、「下」地区ほどには借家の建設が進みませんでした。

 


青木百貨店からママチェーンへ:

昭和30年代後半から昭和40年代(1960年代)にかけて、日本経済の復興とともに西原にも徐々に住宅が増え、食料品を買い求める人が増えて来ました。

 

昭和44年に当時の店の隣の土地が売りに出ることになり、その土地を購入しビルを建てました。青木百貨店は新築のビルに入居する予定でしたが、父が急逝してしまいました。このため、昭和46年(1971年)に青木百貨店は店じまいし、新しい店舗は「シンアイ」(食料品店)に貸すことになりました。しかし「シンアイ」が2年で倒産してしまい、水羽(みずは)さんに店舗をお貸しすることになりました。その後水羽さんは「ママチェーン」に加入され、約40年間営業されました。

 

西原胡子神社にある「青木百貨店」の石碑: 令和6年(2024年)7月撮影。