明福寺の講(同行)

 

このページは、明福寺洗心仏教婦人会のご協力のもと、西原今昔物語から引用して、作成しました。

 


西原の講:

西原の講は同行(どうぎょう)とも呼ばれています。

明治時代には、大きくは次のとおり17個の講組織があり、地区により女人講(おこより)もありました。

 

西原上地区(8個):

伊予屋原・木の下・木の元・天満・小原・新町・三軒屋・今津

 

西原中地区(6個):

五軒屋・冬木・川成・上八日市・中八日市・油屋土居

 

西原下地区(3個):

河合・下八日市・新川

 

なお、各地名の入った地図は、こちらをご覧ください。(ここをクリック)

 


令和7年(2025年)現在の原学区内の講(同行)は、

 五軒屋(西原6丁目辺り)

 天満組(西原8丁目辺り)

 新町(西原8丁目辺り)

 冬木(西原6丁目辺り)

 中八日市(西原1丁目)

の5つです。

 

例えば、五軒屋同行(講)は現在11軒が加入していて、毎年12月3日に地区の人が集まって「お寄り講」を開いています。

昔は各家交代でお寄り講を開いていましたが、世話役の負担が大きいこともあり、現在は明福寺で開催しています。

 


講の歴史(出典:西原今昔物語):

「講」は仏教の講話を聞くために集まる人々の集会を意味する。

浄土真宗では、親鸞聖人の命日に修する仏事を報恩講と称した。八代目の蓮如上人の頃から宗教集団としての講が普及するようになった。

江戸時代に入ると、講は目的によって御飯講、茶所講などと称し、集会の定例日によって〇日講などと呼ばれた。また、婦人の集まりは女人講、尼講と呼ばれた。

明治時代になると、戸籍法が施行され、宗門人別改帳が廃止され、各地域の寺院単位の講が中心となった。

 

西原の講は、江戸期の資料は見つからないが、明治初期の記録が残っているので、その成立はそれ以前であったと考えられる。

 


 広島藩の講の組織 :

村(現在の大字)数戸から十数戸程度に分割して講(同行)を編成した。

講は、地縁的にまとまった10〜20軒あまりの家々で一つの講寄同行をつくり、毎月交替に当番の家を定めておき、月一度ずつその家に集まり、僧侶を招いて、読経後に法話を聞き、飲食を共にしながら宗義上のことその他を語り合うのが常であった。

その際、藩からの触(ふれ)などを伝える機会にも利用された。

大正末期までは、仏壇のある家は少なかったので、各組に組の本尊(ご絵像が主)を置き、各家持ち回りとした。

 


講の運営:

講の世話人を、世話役と呼んでおり、本家筋の人や年長の人が選ばれ、ふれごと(連絡)、夏と秋の初穂の取り集め、法事の世話などをした。その下に輪番制の月当番が置かれた。月当番は、その月のふれ、つなぎものの仕事、走り使いを担当した。 

 


各組の同行(講)では、月当番の覚書として、持ち周りの板片(上の写真)に次のようなことが書かれている。

 

月当番覚(月司覚)

 

(表面)

同行袋内容量

一合枡

二合半枡

三合枡

香典米

大人白米 五合宛

小人白米 二合宛

御小寄 二合半宛

葬儀銭 

八月麦五合宛 十二月米五合宛 

毎月五日迄に次へ回送する事

 

(裏面)

講員の名前が順番に記されている。

 


講の財産:

お惣仏(阿弥陀如来の絵像)、御文章、定め書、書類箱、集合を知らせる拍子木。

仏具としては、オブキサン(仏飯器)、香立、花立。

月番用具としては、木札(氏名を列記し順番を明らかにする)、同行袋、大中小の枡。

飯食器としては、次のようなものを30〜40人分用意している所が多い。

大クド1〜2 、釜鍋2〜3、酒徳利20、盃40、包丁2、膳、膳びつ、わん(四重物はワン、ヒラ、ツボ、シルワン。八重物はこれにふたを加えた呼称)、大鉢、鉢、大皿、小皿、湯呑、やかん。

葬儀用具としては、死花をつくる花の型紙、はさみ、棺覆い、棺担ぎ棒、棺台などである。

これらの収蔵は、大きな家へ置いたり、葬式を出した家が次の葬式まで預かったりした。

 


講の行事:

葬送のほかに、オヨリ、オコヨリ、報恩講などがあった。

オヨリは講員が月一回程度月当番の家に集まり、お経を拝読し住職の法話を間くもので、初オヨリは一年の計画を立てる意味をもつものであった。決められる内容は広く生活全般にわたるところから、住民会議の性格を併せ持っている。

オコヨリは女性を構成員とするものである。

報恩講は年の暮れに住職を招いて法話を聞くとともに、講員総出で精進のごちそうを食べる。

 


講のつきあい:

講は多くは冠婚葬祭のみならず日常の生産活動においても相互扶助の力を発揮するものであった。

例えば講中普請には、前日、当日の手伝いをしたり、わらや縄を持参したりした。母屋や土蔵の普請の場合には白米を加えて持参したりした。

そのほか、屋根の葺き替え、出生、結婚、負傷、火災や田植えなど、万般に相互扶助の機能を持った。

 


講の制裁 :

講中(講員)から不心得のものが出た場合には皆で意見を加え、聞き入れない者には「講ばね(同行ばね)」を申し渡すことになっていたという。

 


講の変遷:

昭和50年代(1970年代半ば以降)に入ってくると、講の諸道具も処分し解散する講も出てくる。西原も都市化の波に洗われて、明福寺を中心としたお寄講も年々減少している