原小学校と戦争

 

原小学校の歴史については、こちらをご覧ください。(ここをクリック)

 

原小学校の昔の写真については、こちらをご覧ください。(ここをクリック) 

 

特に断りのある場合以外を除いては、「西原今昔物語」から引用しています。

 


原国民学校の昭和19年(1944年)前半の沿革誌や、祇園国民学校の昭和20年(1945年)前半の沿革誌をみると、戦争による人々の生活や子ども達の教育への影響がすさまじいものがあったことがわかる。断片的な記録ながら当時のようすを記してみる。

 

 


原小学校(原国民学校)に見る戦争の影響:

昭和11年(1936年) 2月: ニ・ニ六事件起こる。

 

昭和12年(1937年) 7月: 日中戦争起こる。

原国民学校の記録をみると、毎月のように出征兵士を村境(長和久)まで見送るようになる。

また年に数回、戦死した人達の村葬が講堂で執り行われ、児童達も参列している。 

学校の中でも若い男の先生達が召集され、学校でのお別れの式が続いている。

男の先生に代わって女の先生がだんだん多くなってきた。

 

 


 原小学校で行われた村葬の様子: 昭和13年(1938年)。

出典:「ふるさと原と私達」


昭和12年(1937年)11月: 日独伊三国協定締結。

 

昭和13年(1938年) 4月: 国民総動員法が公布。

教育面でも戦時色が濃厚となってきた。

 

昭和16年(1941年) 4月: 国民学校令が施行。

「皇国の道」「国民の基礎的練成」との教育態勢となり国を挙げて、戦争一色になった。

村の働き手は出征兵士として、年寄り、女性などは軍属、徴用工として動員され、中学生、女学生達も工場へ動員され、地域に残っている者といえば、子どもを抱えたお母さんと小学生、幼児と老人に病弱な人達であるので、農村の収穫時や、少しの工事でも小学生に參加してもらうことが多くなった。

 

昭和16年(1941年)11月: 勤労奉仕を義務法制化

昭和16年(1941年)12月: 太平洋戦争起こる

 

昭和17年(1942年) 1月: 学徒動員令

昭和17年(1942年) 4月: B 29、本土空襲

 

昭和19年(1944年) 3月: 中等学校以上通年動員実施

昭和19年(1944年) 9月: 満18歳以上兵役編入

昭和19年(1944年)11月: 広島市に建物疎開告示

 

昭和20年(1945年) 3月: 国民学校初等科を除き、学校授業1年間停止、広島市学童疎開実施 

昭和19年(1944年)から20年(1945年)の終戦の日までは、学校に行ってもほとんど毎日のように作業や農作業の手伝いが続いている。小学校低学年においても、教室で静かに勉強ができるような状態ではなかった。

 

昭和20年(1945年) 4月: 米軍沖縄本土上陸 

20年(1945年) 8月: 原爆投下・終戦

 


学校行事に見る戦争の影響: 

昭和19年(1944年)

4月1日 入学式及び始業式

4月8日 大詔奉戴日神社参拜、校庭に甘藷(さつまいも)苗圃設置

4月15日 父兄参観日、学校長教育講話

4月20日 第2校時、緊急帰宅訓練

4月22日 勅語下賜記念日。神社清掃

4月25日 靖国神社臨時大祭遙拜式

4月28日 結核予防令旨奉読式。式後農商省よりパンの配給

 

5月2日  郡校長会決議が七曜制を廃止。高等科児童、麦の病害虫予防のため出動3日間

5月6日 午後全児童蓬(よもぎ)摘み作業に出動

5月7日 全校わらび狩りに出動

5月8日 大詔奉戴日行事実施、校庭空地利用のため耕地拡張

5月19日 地区の灌漑施設工事の基礎工事用の栗石採集作業動員 初3以上

5.月21日 宗祖誕生日につき、浄玄寺、明福寺に参詣。六年生は栗石採集作業

5月22日 勅語下賜記念日、閲童式、空襲避難訓練

5月23日 灌漑工事作業奉仕 初3以上

5月24日 初4以上、苗代乾水中の雀追い作業に出動

5月25日 初3以上、東原の竹運搬作業に出動

5月31日 防空訓練手旗訓練

 

6月2日 蓬(よもぎ)整理作業

6月3日  初5、西原土手へ竹運搬作業に出動

6月5日 初4以上、麦刈奉仕に出動

6月6日 麦刈奉仕

6月7日 校庭の甘諸植付作業

6月8日 大詔奉戴日、初3以上家庭作業

6月 21日 県視学、休閑地利用状況視察のため来校

6月 30日 献穀田の田植

 


昭和20年(1945年)頃の学校生活: 

昭和20年(1945年)頃になると、敵機来襲で防空壕に避難することも多くなっている。(西原の防空壕の様子については、こちらをご覧ください。(ここをクリック)

 

昭和20年(1945年)には夏休みもなく、各地域でお寺、お宮、集会所、大きな民家を借りて分散し、自習のようなかたちで勉強していたと聞く。上級生が下級生の面倒をみるやり方で、時折先生が巡回してこられたという。

8月6日の原爆投下の日もこのような分散学習(班別学習)の状態だったので、すぐに自宅へ帰ったと当時の人々は話している。

 

一方小学校を終えて旧制の中学校、女学校に進んだ人達は、旧市内で大きな被害を受けた。特に中学校、女学校の1、2年生は家屋疎開の作業に従事していたので、爆心地付近で被爆し、全滅の状態であった。3、4年生は周辺にあった大工場の動員作業に従事していた関係で被害は少なかった。

 


学童疎開:

原地域は周辺が田んぼの農村地帯であったため、学童の集団疎開はなかった。東京、大阪あたりの大都会から縁故をたよっての疎開が数名いた。 

 


戦前の学校教育:

朝礼

奉安殿に向って最敬礼、東方遙拜、武運長久を祈り、校長訓話。

 

出征兵士の見送り

日の丸の旗をふって、村境まで見送る。 

 

陸軍記念日、海軍記念日

訓話、身体を鍛えるための遠足 

 

学校の勤労作業

全学年農繁休業、農作業、家事手伝い

献穀田の田植え、稲刈り

よもぎ、いなご、彼岸花の球根採集

出征兵士の農家の手伝い

グランドや空地に甘藷、かぼちゃ作り

 

服装

学生服(黒から国防色)つぎはぎが多くなる。女の子はもんぺ姿、空襲がはげしくなると防空頭巾をかぶる。

 

遠足

明治から大正にかけては、すべてを修学旅行と呼んでいた。昭和に入ってからは卒業前の大遠足を修学旅行と言い、その他は遠足と言うようになった。行く場所は高学年が宮島等、低学年が近くの公園等が多かった。

昭和も10年代になると、日の丸弁当で長い距離や、山登り等の内容が多くなり、心身を鍛える方向になってきた。子ども達はそれでも結構楽しんで参加していた。高等科の修学旅行は伊勢神宮の参拝がほとんどであった。

 

運動会

昔も今も学校としての大きな行事である。親たちにとっても見学席の場所取りのため、早朝よりむしろをかついで学校に行っていたのを思い出す。種目の中にも、青年団、消防団、婦人会が参加するものがあり、村人全体の行事でもあった。

しかし昭和10年頃より演技種目が、棒上旗奪い、騎馬戦、敵前上陸(障害物競走)、建国体操(今の空手術)、剣道、戦争ごっこ等、時代を反映した内容が多くなった。運動靴も不足しほとんどはだしでやっていた。 

 


戦前の子ども達:

昭和10年頃までは子どもにとって農村は楽しいところで、自然の中での遊びが豊富だった。

昭和10年頃までは原地区にも桑畑がたくさんあり、養蚕も盛んであった。桑の葉は養蚕にとって大事なものであるが、副産物として、桑の実があった。桑の実が紫色に熟れるととてもおいしい果実であった。村中ご馳走の山である。村の子ども達が桑畑に入り込んで、ロのまわりをむらさきに汚して、腹いっぱい食べた楽しい思い出がある。

 

太田川や安川の川べりには竹やぶが続いていた。秘密の基地をっくったり、かくれんぼをしたり時にはターザンのように木から木へとわたり、男の子にとっては、スリルのある遊び場だった。川には小魚や川えびなどが豊富で、捕った魚を夕食のおかずにしてもらったこともあった。

 

遊びは地域のガキ大将を中心にして遊ぶことが多かったが、結構うまくやっていたようである。どんなに遊びほうけていても、夕方になるとガキ大将が解散を命じてみんな家に帰っていた。女の子の遊びとしては家のまわりで、ゴムとび、けんけん、おじやみ(お手玉)などをしていた。 

 

家に帰れば食事の支度、水をくんで風呂の用意、子守り、掃除などそれぞれが家での自分の役割をもっていた。家の人が一日の労働を終えて帰ってくる、その迎え方を子どもなりに充分わかっていたようである。

 

農繁期の手伝い:

農村では、子ども達は昔から家事の手伝いをよくしていた。戦争が激しくなると、若い働き手が軍に召集され、工場に動員されて、農家の人手が足りなくなってくると、子ども達の手伝いも以前より、もっと必要とされるようになった。学校でも農繁期休業を設けて、作業をすることが多くなってきた。平日に出征家族のお手伝いに行くこともあった。特に田植え時期や稲刈りの時期に働き手となることが多かった。時には稲の害虫取りや、いなごとりに出かけることもあった。

 


進駐軍: 昭和20年(1945年)以降。

連合国軍隊が日本に進駐してきた時、日本国中は大変な緊張をもって迎えた。いろいろと流言蛮語がとびかい、女や子どもは山へ逃げた方がよいとか、家の中にかくれた方がよい等。

行政機関からも種々注意が出されたようである。進駐軍に対しては「常に毅然たる態度を堅持し、明朗親切に対応し、不快の感を与えないようにする」、「生徒児童には物乞い的態度はさせないように」等である。

 

進駐軍の学校訪問:

山本小学校に勤務していた有馬静男校長は進駐軍の学校訪問のようすを次のように記し

ている。

 

時期と訪問者:

昭和21年7月下旬、陸軍兵士 5名

 

訪問者の行動:

予告もなく突然来訪し、靴のまま玄関より廊下に上がり、1教室1名廊下側の窓を開けて、廊下より入念に授業を視察する。全教室の視察が終わると、物置等の奥まで入り、いちいち物を調べた。二階の物置に、軍の疎開物資の残りがあるのを見つけ、何か大声をあげながら運動場に投げ出し、最後に職員室に入り、戸棚の書類を入念に点検し、無言で校門を出ていった。校門の前の畑にある忠魂碑の前で何か話していたが、何も言わずに帰っていった。

 

その後:

数か月間は、何か譽告があるのではないかと、戦々恐々であったがついに何事もなかった。

 

進駐軍と児童たち:

進駐してきた米軍、英軍、豪軍、ニュージーランド軍の兵士達は想像していたよりかやさしくて親しみやすかった。子ども達はすぐに慣れて、いくぶん物乞い的な様子はみられたが、仲よくなっていった。流行ことばで、「ギブミーチョコレート」はどんな小さな子ど

もでも使っていた。物資のない特に食料不足の時なのでいたし方なかったようである。