冬木神社(旧称西原八幡宮)

 

冬木神社の昔の写真については、こちらをご覧ください。(ここをクリック)

 


冬木神社の由来:

西原には室町時代には既にお寺や観音堂が存在したが、神社は江戸時代初期(正保元年一1644年)までは存在せず、村民は戸坂の狐瓜木神社の氏子として、その神社へ參拝に行っていた。このことについて木村家古文書に日く、「西原の氏子は初め安芸郡戸坂村狐瓜木神社の氏子なりしが、寛永年間(1624年〜1643年)例秋の祭事社参の節、度々洪水あり、特に寛永8年(1631年)8月14日の大洪水は被害甚大にして渡舟出来ず、渡舟場の異常もありて氏子の者共歎願し、正保元年(1644) 8月15日狐瓜木八幡宮、神主木村太郎庄右衛門尉正賢の時代に西原観音のかたわらに社殿一宇を建立し、旧氏神の狐瓜木八幡宮の神達を勧請し西原八蟠宮と号す。」とあり、神社は正保元年の創建以来今日までたびたび改築され、最近では明治41年(1908年)に改築が行われ、翌年には村内各地にあった小祠等4社を合祀して冬木神社と改称した。

 

冬木神社の主祭神は品陀和気命(応神天皇)ほか2神である。また主祭神と共に祭る相殿の神として、伊邪那岐命ほか五神が祀られている。現在冬木神社の境内には松、杉、銀杏、椋等の大木(樹齢300年以上のもの)が見られる。また建造物では、江戸時代造立の鳥居や狛犬や燈籠等が見られる。これらの石造物や古木の配置並びに神社の敷地にそって流れる八木用水の位置等から考えると、社殿や石造物や参道の配置(レイアウト)は創建当時のままで、大きな変化はないようである。

正保元年に社殿が創建されて以来現在まで、社殿はたびたび改築や修繕が行われている。

 

(西原今昔物語)

 


新資料発見 冬木神社 (はらだより・掲示板(2019年4月号と5月号))

 

昨年の夏、明福寺住職から、「書架を整理していて、珍しい資料を見つけました」と掲示板編集委員へ1枚のコピーが持ち込まれました。それは、明治42年(1909年)作成の「西原村冬木神社建築費決算報告書」でした。旧字体で記されており読みづらいものでしたが、このときの新・改築によって現在の神殿の姿になったと言う貴重なものでした。冬木神社については神殿に掛かる宗歩高分社前のくる女木神社の資料ぐらいしか見受けられませんので、いかに珍しいかお分かりいただけると思います。

神社には創設以来の棟札が9つありますが、下の内容(概要)以外はわかりませんでした。

 

『西原今昔物語』では明治41年(1908年)10月9日のことを「神殿の屋根葺き替え。拝殿の改新築鍵」と記し、さらに「なお、棟札はないがこの年に拝殿が改新築されている」と説明しています。収支を見るとこれが大改修で、いわば新装大開店であったことがわかります。  

注)棟札とは、棟上げの時、工事の由緒、建築の年月日、建築者などを記した札

 

寄付等の収入総額は3,188円6銭5厘、支出総額は2,832円14銭5厘となっています。とりわけ目を引くのが収入の部の2段目(下表)にある「外国在住者の寄贈金額」で、789円42銭5輪にも達しており、これは村内寄付金額の3分の1以上を占めています。当時、原村は日本一の移民地帯の一角を占めており、何事につけ海外からの送金に依存することが多かったことを物語っています。

 注)ちなみに、当時の物価は、巡査の初任給12円、大工日当1.1円、理髪10銭、米10キログラム1.1円。

  

明治41年(1908年)は、アメリカとの間に「日米紳士協約」が締結された年で、以降はハワイを含むアメリカへはわずかな例を除いてほとんど移住が認められなくなりました。数年前から移民排斥運動が激化したため両国政府が取った措置でもあります。その後はアフリカ本土とハワイでの定住化が急激に進みます。

こうした背景を考えると、神社新・改築への多額の寄付は、「郷里の最後の奉公」だったのかもしれません。 

また、上棟式には職工人への祝儀や雑費、余興費が300円余り計上されていますので、村をあげてのセレモニーが挙行されたと思われます。

正面と西側の石段側面には、寄贈者と明治41年10月吉日、明治41年10月9日の落成日が刻まれています。 

 


先月の掲示板で「西原村冬木神社建築費決算報告書(明治42年)」を紹介しました。その10日位後に、住職から「書架を整理していたら古い神社の写真が出てきました」という連絡を受けました。明治41年(1908年)に完成した現在の一代前のものです。

 

現在のものと比べると、屋根は小さく、拝殿も狭く、床高も低くて全体的にこじんまりとしながら孤高を保っている感じがします。荘厳なほどの屋根や多くの人が同時に参拝できるような拝殿でもなく簡素なたたずまいです。右手の杉の木と左手奥の大木は、今はありません。右奥の広葉樹は現在大木になっています。また、六角の観音堂は、大正4年の建立ですので写ってはいません。

 

規模や形がこれと酷似しているのが、東原の瑞穂神社です。両方の写真を載せておきますので比較してみてください。瑞穂神社は明治4 2年(1909年)1 0月に改築されて現在の姿になり、冬木神社はその1年前に新改築して、大規模に拡張したことになります。

 

そこで、旧冬木神社を瑞穂神社と同じ規模とみなして、現冬木神社と比較すると下表のようになります。

新旧では、幣殿(幣帛を収めるところで、供え物と畳部屋がある)の広さで2.3倍、拝殿の広さで3.0倍となっています。これに高さを加算すると、いかに大きな新社殿であるかお解りいただけるでしょう。

なお、垂れ幕には左側が「奉祷皇軍武運長久」、右側は「奉祷皇軍之必戦勝 原村消防組 第三部」と書かれており、背景には日露戦争(明治37年(1904年)から38年(1905年))の影響があったものと考えられます。また、冬木神社をはじめ東原の瑞穂神社、中筋の才の木神社など近隣の神社も明治40年代前半に改築されており、日露戦争勝利の祈念に応じた造営であったように思われます。

 

明治41年(1908年)までの境内には、写真の神殿と観音堂がありました。当時の観音堂は現在の茶堂の位置にあり、茶堂自体は観音堂の構造を継承して建てられています。古老によれば、その後の大きな神殿と洒落た六角堂は「西原の心意気」を示すものであったそうです。